
前説
自分にとって、初めて「魔法少女まどか☆マギカ」と言う存在を認識したのは「叛逆」だったと、振り返って強く感じる。
小学生の頃まで交友があった幼馴染が勧めてくれた一作が「まどか」で、TBSで再放映されてた「永遠の物語」を見てハマり、近所のTOHOシネマズで観ようとしたら満席で観れずに帰る羽目になった苦い記憶がある(その後TSUTAYAレンタルで視聴)。
とは言え、この時点では今の自分がケレン味と前衛的な表現を持った作品を好む一助になった。以上の作品では無いのですが、この一報が自分の中で強く興味を掻き立てました。
「主演キャストによる新録ボイスも収録! 『魔法少女まどか☆マギカ』新作コンセプトムービーの制作スタッフ&キャストが判明 | アニメイトタイムズ 」
「白鳥のバレエ」を見せるまどかの姿は今でも鮮烈な印象を与えますし、2016年に関係が中学卒業と共に断絶した当時三年だった先輩と行った【MADGATARI展】で拝めた時は心底感動したのを覚えています。
「このコンセプトアートがどう言った形になるのか」
様々な作品に触れる様になっても気になっていた事柄。
それが「ワルプルギスの廻天」という形で結実すると知った時は本当に狂喜乱舞しましたよね。
【新作劇場作品情報②】
— 魔法少女まどか☆マギカ (@madoka_magica) 2021年4月25日
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻天〉』ティザービジュアルを公開いたしました。
さあ、物語をつづけましょう。https://t.co/RLKZsY3U36#魔法少女まどかマギカ#まどか10周年 pic.twitter.com/u5H0sITE6i
ここから幾度とない延期とPV公開を経て、遂に今日(書いてる時点では昨日)2026年8月27日[金]にロードショーというのは本当に胸が熱くなりました。
焦がれ続けた「Puella Magi Madoka Magica Concept Movie」がどこまで反映されてるのか、「今回こそは延期しないから!!!!」と宣い続けた思いが報われるのか。
全力でこの「ワルプスギスの廻天」という作品と死闘した感想を書いていこうかなと思います。
ここから感想兼ネタバレの話ですので、まだ見てない人はバックしてください。
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— 魔法少女まどか☆マギカ (@madoka_magica) 2026年8月27日
劇場版 魔法少女まどか☆マギカ
〈ワルプルギスの廻天〉
本 日 公 開
━━━━━━━━━━━━━━https://t.co/Uyz3IDLwyC#まどかマギカ pic.twitter.com/dQe63NzyZ7
はい。では話していきます。
1/「本日、今、この時」の気持ち
率直に、今の気持ちを述べるなら本っっっ当に最高だった!!!
「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」シリーズ「劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト」を筆頭に、作品が持てるエネルギーを総動員し、燃やし尽くす。その過程でメタ的な示唆と包括する「システム」への抗いを見せる、そういった物語が好きな身としては「叛逆」同様に大変楽しいモノを見せてくれたと思う。
同時に、「Puella Magi Madoka Magica Concept Movie」に脳を焼かれた身としては「あ!コンセプトムービーのシーン(台詞)ここで使われるんだ!!」といった発見と感動もあった。
「叛逆の物語」と言うある種の「完結」を迎えた世界の続きを描くとしたらあれ以上は無いだろうし、その上で作品に散らばっていた、「曖昧にされたもの」のベールを暴き、描いていく様は「シンエヴァ(あるいは夏エヴァ)」を彷彿とさせる。
言わば↑で名前の挙がった「描き尽くす」作品を好む自分は大いに楽しめた。
しかし。そういうのを抜きにして「作品」としてどうだったか?と言われたらやはり「60点(多く見積もっても70点)」の作品だと思う。
というのも、今作は「叛逆」のその後を描くにあたって設定が増え、キャラも増え、故に描くべきことも膨大になったが故の駆け足感を感じてしまう場面がいくつかあった。
如実に感じたのはやはり新キャラである紫丁香とセルマ・テレーゼが見滝原の面々と仲良くなっていく過程。ワスもだけど、このキャラ達がフック無く仲良くなっていくのは直前にあった「日常に溶け込んでいく」という台詞や正体からして「正解」ではあるのだけど、それにしても急き過ぎてたと感じる。
しかしその割に話の見せ方はやや単調気味な構成で、「13年待った」とかそういうのを抜きにしても、全体的に「TVシリーズ2期の総集編」的な印象を抱く。
やり残しの精算。やるべき事の回収。そういう部分に重きを感じてしまい、もっと描けるのに勿体ねぇ.....という思いをどうしても感じてしまうし、やはり三人の新キャラは皆良い性格と良いキャラしてると思うので、パンフレットにも書いてあった通り「TVシリーズ」として描くのが一番ベストだったと思うんですけどもね......うぅ.........
そう言う意味でも今作は具体的な盛り上がりどころと言うのが非常に少なく、そこが不完全燃焼感に繋がっている部分だろう。
しかしそれ以上に、「キャラIPモノとしての限界」を感じたから。というのが大きいと思う。
2/果たして、「システム」に打ち勝ったか?
個人的な認識として、
・「まどかの願いは正しかったのか。ほむらの愛(エゴ)は間違っているのか」
という前提があって、その上で
①「"魔女"は本当の意味で救われたのか」
②「鹿目まどかは"人"なのか"システム"なのか」
③「異なる思想は共存できるのか」
の3軸が存在し、それを貫く形で
「摂理(運命/線引き)に打ち勝てるか=自由意思を貫けるか」
が全体テーマだった様に思える。
①はワス、紫丁香、セルマで組まれた「名塚底根」組はまどか(円環の理)によって救いを齎されはしたが、それが「=個人にとっての救済だったか?」をそれぞれのスタンスや背景を元に突き付けているのがかなり目から鱗だったし、それ故にセルマのキュゥベえを全面支持する姿勢はかなり新鮮だった。
②は特に顕著というか、「名塚底根」組は終盤まで「救い主/邪魔なシステム」として見ていて、見滝原組も「距離感のある存在」から「今後も仲良くしていきたい友人」くらいにまで距離を縮めてるとは言え、全体的に「まどかに対しての感情=偶像崇拝」って雰囲気なんですよね。セルマもそこをさらっと言及してましたけど。
その中から明確に外れてるのがほむらとさやかだけ。.....というのも、諸々踏まえて腑には落ちるけど、終盤の収束具合からして結構「舞台装置」じみた想いを抱く(これは②に限った話じゃないけど)。
③も具体的な形はで示されてはいないが、「円環VS悪魔」「ご飯を残す/残さない」「崇拝と友愛」「魔女と魔法少女」「キュゥべえに賛成か/反対か」「正しさVSエゴ」etc.といった思想/スタンスの対立がふんだんに存在しているし、終始この対立構造との戦いで話を駆動し続けていたと思う。
冒頭の「トカゲさん電話」を使い悩みを解決するフリをして日雇い魔法少女を作り出すほむらと、直接話を聞いて、悩みを解決は出来なくても寄り添う姿勢を見せるまどかもこう言った対比の一環か。
こうして見ると、「廻天」という作品はTVシリーズ〜叛逆以上に「運命(決め付け/決まりごと)との戦い」を描いてる様に思うけど、それが果たして成功していたか?「摂理に打ち勝てていたか?」と言われたらあのラストを踏まえても「No」だろう。
確かに①と②の軸は達成していたと感じるけど、③は「人間単位」でなら一定の達成を果たし、「円環と悪魔」の話にフォーカスするなら全然達成出来ないと思う。そもそも大前提である「まどかの願いは正しかったのか。ほむらの愛(エゴ)は間違っているのか」も結局「円環の理」そしてまどかの持つ「慈愛」と「正しさ」の前に敗北していた様に感じるラストだった。
「円環」というシステムはありつつも、「まどか」は存在し続けているなら両者の思想の引き分け。互いに「自由意思」を貫いた。と捉える事もできるけど、まどかが消えた以上、そう思う事はなかなか出来ない。
突き詰めていけば、「廻天」で描くべきだったのはまどかとほむらによる認識の擦り合わせとその上でエゴを賭けた喧嘩で、魔法少女や魔獣/魔女、そしてインキュベーター諸共の一切合切を消し去った新たな秩序を描き、「普通の中学生」として改めて出会い直す......だったと個人的には思う。
そうしなければほむらとまどかは本当の意味で共存出来ないし、散々描いていた「システムへの抵抗」に対しての新しい答えたり得ないだろう。
キュゥベえのやっている事はセルマの言う通り大局的に見れば良いものかもしれないが、その過程でざまざまなものを踏み躙る以上、「有害な存在」と扱うしか無いし、「魔法少女」と言う概念が存在し続ける以上、まどかはその性質と思いが故に背負わされたモノを降ろせず、ほむらもまた苦しみ続ける。
なら必然「全く新しいシステム」を打ち出すしか無いのだが、その選択を取るという事は正真正銘「魔法少女まどか☆マギカ」を終わらせる事と言える。
「人身御供で成立するシステム」と「元凶を消し去る」選択を取れない/描けなかった事に「キャラIPモノ」の限界を感じてしまった。というワケです。
同時に、最後に映し出された壁に囲まれた見滝原とそれ以外は砂漠と化してる世界はほむらの「せめて大切な人の居場所は守り続ける」と言うささやかかつ堅実な「システム」への抵抗とも取れて、非常に涙ぐましい。
ほむらの微笑みはそう言った「一つの事は貫いた」事への充足感、なのかもしれない。
しかしその結末は「13年」という重みの前じゃ満足させるに至らないし、期待していたものでは無かった。という認識の擦れ違いが今作を賛否両論にしているのかな?と感じる。
というかこの「終わらせるんだな......!?」感が強い割にあのオチなのは正直詐欺だと思うんですよ()
「彼方」もそんな感じの歌詞じゃないですか!!!!!!!尚更ね!!
3/じゃあ、この作品嫌いなん?
自分の中にある「ここを描いて欲しかった」を整理した上で、改めてこの作品は嫌いなのか?を考えると「そんな訳ない」とどうしようもなく思う。
同じくらい好きな場面や要素も存在している。
冒頭のアクションや「トカゲさん」として黒幕やってるほむらは「新世界」を如実に痛感させてくれたし、ほむらVS「名塚底根組」の規格外の戦いっぷりは視覚的にも見ていて楽しかった。
特に今作はケレン味的な戦いではなく「王道さ」をベースにしたアクションが多かったのが、なんとなく本作を「普遍的」かつ一番「魔法少女モノしてたな」と言う思いにさせる要因だったのかも。
設定面でも魔獣と魔女の違い。そこから発展して「ワルプルギスの夜」や「魔女」とは?に繋げていく構成は穴埋め的ではあるけど「あ〜そういうことね!!」と頭でハマっていく感覚は気持ち良かったし、何故「ワルプルギスの夜」が見滝原に現れたのかもめちゃくちゃ納得してしまう説得力がある生き様だったように思える。
新キャラであるワス・紫丁香、セルマは皆魅力的だったし、セルマに関しては前述した通りこれまでに無かった視点かつ「数多くの魔法少女が居るならこういう子もいたんだろうな」という思いになった。
だとしてもラストがあんまりにもあんまり過ぎるだろ!!とは思うが、キャラを突き詰めていけばあのやり方でしか報われないのがな.........
ワスもとい「ワルプルギスの夜」は「悪循環の中で救いになろう」というまどかやほむらと正反対の立ち位置に居たのはTVシリーズにおいて「最大の敵」だった事にもハッキリと意味が生まれ、同時に「失敗した円環」なんだなという対比があったのも良かった。
紫丁香はこう、お前はもっと幸せになって良いんだよ.......😭という思いになる。紫丁香がただただ幸せになる感じのスピンオフください。
見滝原組はあんまり言う事ないけど、強いて言うならなぎさがとても良いキャラしてたと思う。
「楽しむ事を重視する」「必要と感じた事以外に労力を割かない」と言うスタンスは「廻天」に登場したどのキャラとも明確に違う立ち位置だし、だからこそ作中での行動に一貫性がある。
考え続ける人達を中心に話が駆動し続けるからこそ、俯瞰した言葉を放てる。
さやかのメンブレ(自身の所在を見失う事)に対して言葉を掛けれるならなぎさしか居ないし、ほむらのメンブレに対して発破を掛けれるのはさやかしか居ない。と言う数珠繋ぎはマジで綺麗だった。とは言えほむらちゃん、さやかの扱いが雑過ぎる!!好意的に見てるからこそ、そうやって良いと思ってるんだろうけども!!
なぎさが記憶保持してる理由としては、さやかが直接的に弄られただけで(核心に触れようとしない限り)円環側の存在は何だかんだ保持し続けられるんじゃないかな?と。でも叛逆で「薄れていく」云々言ってたから、ぼんやりと覚えてはいたけどあの局面になってハッキリ思い出した。とかなんだろうか。
こうやってつらつら書いた上で、じゃあ何が一番心に来たかと聞かれたら、やはりあの世界で抗い、「何か」を示し続けようとした姿なんだよなと。
「何故自分はこうしたいのか」
「自分は何を成したかったのか」
「自分は、どうしたいのか」
そう言った「気持ち」を、お世辞にも上手い着地とは言えない中でも描き抜き、見せてくれたのは最大限の感謝ポイントと言える。
ほむらも散々回り道をして、ようやく自分の想いを、気持ちを「正面」から言葉にして形にして示す姿は見ていて熱くなったし、だからこそ報われて欲しいと思ったし、故にラストで「マジか」と言う思いになったんだろうな。
改めて思い返せば「廻天」のキャラって迂遠な言い回しせず、ハッキリと「想い」を伝える人達が多かった様に思える。
シリーズ通して存在していた「きちんと言わなきゃ伝わらない」という部分のフィードバックをキャラ単位で描いてきたのは正に「叛逆」以降の作品で、「叛逆」まででは出来なかった作風だなと。
4/「現状の総評」
この作品は「普遍的」だと思います。
「まどか☆マギカ」の様な斬新さも「叛逆の物語」の様な驚くべきタネも仕掛けも無い。
「叛逆」以降を描くとしたら"こう"するしか無いし、これ以上が無いよなという思いは正直変わらない。
13年という長い時間を経て世に出たこの作品はもう「特別」では無く「普通」あるいは「ありきたり」「凡庸」と言える形に落ち着いた。
実際2時間でやり切るには無理がある─十全じゃない─内容だし、魅力的な新キャラも惹かれるカットも全部を刹那的に使い捨てていくのは攻めていて好きだが勿体無い。結末もモヤモヤする。
もっと良い形があっただろと思う。
もっと着地点を模索しても良かっただろと心底思う。
ほむらとまどかが道を違え、それぞれの生き方を歩み出す。という方向に行くとしてもより良い描き方はあった筈だとどうしようもなく思う。
要は「止揚(アウフヘーベン)」がこの作品には足りなかったと感じる。
それでも、この世界に生きる人達が想いを言葉にし、形にし、行動に移して戦い抜く生き様はどの様な時代であっても誰かの心に火を灯し、手を引ける「普遍的」な力を持っていると思うし、何より、「どの様な選択を取ったとしても、それが失敗に終わるとしても、応援してくれる人は必ずどこかに存在してる」というのは勇気を与えてくれる。
「システム」を打ち倒す事は叶わなかったかもしれない。それでも確かに「生きた」証を、「"私"は”私”に従って成した」という「自由意思」の証明を打ち立て詰め込んだ事にこそ、この作品が今の世に出てきた意義があるのでは無いかと。
そしてそういう部分にこそ「システムとの戦い/抗い」を描く作品が好きな自分に刺さった部分なのだなと強く感じました。

少なくとも、10年前「Puella Magi Madoka Magica Concept Movie」に目を奪われた少年はようやく報われたなと。

2016年の9月25日撮影
EX/各PV
心底絶叫したのを覚えています。
この特報1範囲の映像、基本的に序盤部分しかないし、まさかまどか変身シーンはしっかり使われるやつだとは思ってなかったな.......
同時に「このカット無かったよな?」とか「このシーン、構成変わってないけど構図は変わってたな.......」がこの時点で結構ある。
見滝原の全景。弓を構える日雇い魔法少女ちゃん。佇むワスとか。
この範囲のカットも本編だと変わってたりしてビックリするね
落下するほむらは蜘蛛の巣的なエフェクトが違うのに変わってた筈だし、セルマの肩に乗るキュゥべえのカットは向きが反対になってたと思う。
印象深いまどかを見つめる「◯◯◯◯◯◯」とかここまで不気味じゃなかった気がする。
そんなに変更になったカットは無い印象だけど、ぽつぽつ描写やエフェクトが追加されてるね(本編は杏子の口元にジャム?着いてた筈)
ここら辺になるともう全然追加描写は無い感じかな.....?(記憶とそこまで相違無いので)
こうやってPVを見ながら本編と照らし合わせてくと、如何にシャフトが表現に拘ってるのかを凄く痛感するし、そこが良いんだよなと思うけどちゃんと納期は守って欲しいんだよなッ!!
歌詞とメロディ含めて、最後の物語(暫定)がこの曲で良かったと心底思います。
「まどか☆マギカ」、そしてまどかとほむらの物語を包括するに相応しい内容だなと。
少しでも世界に対して前を向ける、そんな曲だと思います。
























